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「俳句の先生」論

何かを学ぼうとするとき、「師」につくのなら一旦は「師匠」を全面的に信頼して全てを委ねるような態度が必要だ、というようなことを、多分内田樹あたりがそんなこと言うてた気がするわ(確認しない)、ほいで私もそれにおおよそ納得している。
俳句の先生を選ぶのはそれなりに大変。もっとも先の内田樹的な観点からすれば、「選ぶ」なんてことはしないでとにかく一旦は飛び込んで信じて従うことが重要だとも言えよう。
しかしながら、歳をとってくるとそれはなかなか現実的なことではないことも多い。今更自分を殺して師に従う勇気を持てるかどうか。また、どのくらい「それ」に自分を捧げ得るかということも人によって違うと思うのだ。ま、この辺は年齢とは関係なく性格によるよね、って話かもしらん。
【ここが本論】
ちょっと俳句に関心を持って本を読んだりテレビを見たりなんかしたことがある人なら、先生によってだいぶ言うことが違うな、ということに気づくと思います。
ほいで、俳句の先生の「評価」にはいくつかの観点・尺度があるんじゃないかというのが私の考えるところなのです。

  • 本人の作った句
  • 俳句に対するスタンス(伝統からの逸脱をどの程度許容しているか、等)
  • 教え方(教える技術)
  • 選句
  • 人となり

さらにそれぞれについて(最後を除いて)技量の善し悪しという観点と、自分の好みかどうかという観点があるので、尺度はさらに倍に増えて複雑さを増すのです。
具体的には「この人の作る俳句はそんなに好きじゃないが、教え方は非常に上手くてわかりやすい」とか「この人の作る俳句は好きなものが多いけれど書いた本の内容は納得いかないしなんか語り口が肌に合わない」などということがあり得ます。最近私が思うようになってきたのは「教え方も上手い、作る句も好き、しかし選がイマイチ」ということがあるよな、ということです。
私は俳句に関心を持った当初、好きな句を作る人の解説書から読みました。それで何か納得がいかないことが多かった。今思うとそこで長いことつまづいていたように思う。ほいで俺にはもう無理なんだーと諦めていたころ、俳人としては全く名を知らなかった文筆業としての別の本業をもっている千野帽子が俳句について書いた本を読んで、共感できるスタンスやなと思う経験をした。その少し後に夏井センセをプレバトでみて、あっ初めて納得できることを喋ってる人を見た、と思った。学校の先生をやってたから教え方がうまいのかもしれないし、バラエティ番組という枠組みの中に納めるためにやや暴力的といってもいいほどに要素を単純化して絞り込んだことが(私に対して)奏功したとも言えるのではないかと思う。
先人達が積み上げてきた歴史があり、そこで培われてきた技術がある。それを知るのは大変興味深く面白い。一見堅苦しくも見える様々な枠組みも合理的な技術であることを知ると腑に落ちて納得ができるのだ。
そして自分の「好み」がわかってくると、自分がやりたいのはどういうことなのか、何を目指しているのか、が改めて明確になる。
その「技術」と「欲求」が噛み合うと、幸せな気がする。
今のところ全ての要素が揃った自分好みジャストの先生には出会ってないし、句会に出たいとか投句したいとかいう欲求が微塵も湧いてこないし、相変わらずやりたいことは日記句なのだし、俳句に身を投げるようには没頭できない。
でも一方で、大抵の先生の言うことにそれぞれ納得ができるところがあるし、学ぶ点があるなと思うようになってきた。「要素」ごとに受け止めることができるようになったのかなと思ってる。俳句を読むにあたっても、以前よりさらに楽しくなってきた。
相変わらずなかなか作れなくてこんな風に周辺のことばかりべらべら喋ってて典型的な口ばっかになっとるけど、わしは確実に自由になってきとるな、という満足感がある。