もど記

はてなダイアリーとはてなハイクの後継

 わたしや、その時その場にいた人々が、不細工な箱に感動を禁じえなかったのは、決して優越感をくすぐられたせいなどではない。銀細工の器を、そのような箱に入れて売るのをごく当たり前とする社会が存在しえたことに、はてしなく心打たれたのである。
 あらゆるものがカネに換算されて評価され、商品としての価値を高めるために万人が血道を上げる社会。モノを売るためにあらん限りの智恵と情熱を捧げることが当然視され、それが今や押しとどめようもない自動運動モードに突入したような感がある。要するに爛熟した資本主義の生み出す消費文明に疲れはじめたわれわれにとって、その無愛想な箱は新鮮で快かった。何もかもが、
「買って、買って」
 とわめき、ささやき、こびへつらい、まとわりつくのにうんざりしている目からすると、
「買ってくれなくとも一向にかまわないわ」
 という感じの箱のたたずまいは、何だかとても潔くて清々しかった。おのれに包まれるものが商品とあることを拒むような、毅然とした迫力があった。
 ヒトにも、モノにも、売れるか売れないかなんかに関係なく、それそのものの価値がある。いや、価値なぞ無関係に、それぞれ勝手に存在する。そんな当たり前の真実に虚を突かれたように気付かされたのだ。
 そういう衝撃的発見や再発見を数限りなく与えてくれた実験国家は消滅した。だからといって実験そのものが無意味だったとは思わない。
共産主義は科学だそうだが、少なくとも自然科学ではないね。自然科学なら、人間に試す前に動物実験をやるからね」
 ロシア人が小咄で笑い飛ばす実験の、その無惨で滑稽な消滅のプロセスもまた一つの実験であった。思えば、一九一七年には「労働者と農民の国家」を誕生させて世界を震撼させ、今また社会主義から資本主義への道程を突き進もうとしているロシアは、人類を代表して二〇世紀最大の二つもの歴史的実験に挑んでいるのだ。
(ロシアは今日も荒れ模様 (講談社文庫) p.11-12)